基本的な考え方

世の中にはボイストレーニングと一口に言っても、無数の考え方、ノウハウがあります。それこそボイストレーナーの数だけ種類があると言っても過言ではありません。

ボイストレーニングの世界には昔から色んな都市伝説めいた言葉が飛び交っています。

people-316506_640昔だったら、「声をお腹で支えるんだ」「足は肩幅に開いて背筋は伸ばして顎は決して上げずに引いて・・・」「軟口蓋(上あごの奥の辺り)を挙げて声を出すんだ」などといったようなことでしたし、今なら、「閉鎖筋を鍛えて裏声+エッジだ」「超回復で声を嗄らすまで出して2日休んでまた声が嗄れるまで出して・・・を繰り返す」「〇〇本はまあまあだが△△本は全然ダメだ」「鼻腔共鳴を強くするんだ」・・・など昔よりもバラエティーに富んできたのかなと思います。

それだけボイストレーナーと呼ばれる人の数が圧倒的に増えて考え方やノウハウが(特にネットを通じて)無数に出てきたということなのだと思いますが、何よりも昔(今から7~8年前)は「腹式呼吸」というとても大きな信仰がありそれ以外の考え方やメソッドがあまり生まれてこなかったということも大きいのだと思います。

私はより良いレッスンのために今も色んなボイストレーナーの方の本や動画・ブログ等を見たりします。それで「なるほど!」と思うことがあればレッスンのアイデアを頂いていたりもします。

ですがその方の言っていることを100%鵜呑みにすることはありません。「確かにそうすれば声が出やすいけど何でだろう」と考えます。物事には全て理由があります。声が「出しやすい」にしても「出しにくい」にしても必ずそこには明確な理由が存在しているのです。それを出来るだけ多方面から検証してゆくことでレッスンの精度が増し、「声」の真実に一歩近づくことが出来ると考えています。

もし私が「腹式呼吸の信奉者」なら、生徒さんの声の善し悪しを全て「腹式が出来てるね」「腹式が出来てないよ」で言い表すことが出来るでしょう。これは「閉鎖筋」でも「響き」でも「軟口蓋」でも「姿勢」でも「○○に当てる」でも、どの『信奉者』であっても全く同じです。自分のレッスンの至らなさを全て生徒さんのせいに転嫁できます。こういった視点の偏りを是正するために、ボイストレーナーは常に自分の考えを多方面から検証をする必要があると考えています。

さてそれでは、「ボイスラボではどのような視点を持ってレッスンを行っているのか」を簡単にここで書かせて頂きたいと思います。

① 声帯の振動(開閉運動)を通じて音が発生する
② その振動には呼気(―吐く息、まれに吸う息も使う場合があります)が必要である
③ ①で生じた音がのどや口などの共鳴器官を通過し音が増幅する

以上の3点が基本となる一番大切な視点です。

意外かもしれませんがとても当たり前なことですね。私たちは、とても当たり前な「声」という現象をわざわざ複雑にしたり、ややこしくしたりしてしまっているのです。実際にレッスンをするとなると色々とややこしいことは出てきますが、考え方は常にシンプルです。

「声とは声帯が動くことで発生している」― これがまず一番の大前提です。

完璧な呼吸やのど・口の形をしていても声帯が炎症していたり、ポリープが出来ていてはいい声は出せません。声の高さ(ピッチと言います)を決めているのは声帯です。声の音色を決めているのも声帯に依る所が大きいでしょう(のど・口の形も響きという面で関与します)。

では、この声帯が高さや音色などの面で自由に動くためには何が必要かと考えてゆきます。

声帯自体のコントロールもありますし、声帯を動かす筋肉(内喉頭―喉仏の中の筋肉群)のコントロールもあります。いきのコントロールや喉仏の位置を決める筋肉(外喉頭―喉仏の外にある喉仏を吊る筋肉群)のコントロールもあります。

これら全てが上手く一致してイメージされた声を発声する時に声は自由且つ素晴らしいものとなり得ます。

①が自由にコントロール出来る状態があれば、②③はおのずと整えられると考えます。なぜなら、①が整う状態があれば、効率の良い発声が起こるため、②の呼気量は適切化される(強い息でボリュームや高さを稼ごうとしない)でしょうし、③の響きも外喉頭の自由な動きと安定によって思う音色を得られるからです。

この①を自由にコントロールすることはインスタントに出来るものではありませんが、呼吸(②)や共鳴(③)からアプローチするよりは科学的根拠に基づいた安全で確実な方法だとボイスラボでは考えています。

余談になりますが、私の子供が小学生になったある日、何十年ぶりかで動物園に行きました。臭いしあんまり行きたくないと思っていた私でしたが、園に入ってみてとても衝撃を受けました。とても小さな猿が私よりもはるかに大きくて通る声で鳴いていたのです。まあ当たり前のことなのかもしれませんが、発声器官としての大きさや素材はむしろ人間の方が恵まれている筈なのに自分の声は猿と比べてなんと乏しい声なのかと思いました。ライオンやトラなどの檻の前ではその声の圧倒的な存在感の前に声でビビる思いをし、これが野生のライオンだったら怖くて気を失ってしまうかもと思いました。

これは決してライオンや猿が特別なのではありません。人間が言葉を使ったことで声としての機能が言語を伝えることに偏りすぎたんだと思います。もっともっと言語以前の「こえそのもの」で気持ちや思いを伝えてゆくべきたと思います。歌も演技も「歌詞や台詞の意味」といった小さな舞台ではなく、声の持つもっと大きな可能性を見つめてゆきたいと思っています。

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