ボイストレーナーへの道のり ⑤ 音楽学校にて

 

「植村さん。いろんなことがあると思いますが、歌は続けられた方がいいです。」

 

音楽学校の入学カウンセリングの時にスタッフの方からボクはこう言われました。

実は当時のボクは歌を歌ってゆくつもりがありませんでした。演劇時代の挫折が自分の人間力の弱さからのものだったので、表に立つ人間には向かないと思っていたのです(今もそういう気持ちは残っていると思います)。

演劇をしていた頃に役者ではなく脚本家や演出家を目指したように音楽でもボーカリストではなく作曲家や編曲家になりたいと思っていました。

しかし、ピアノもほぼ弾けない、音楽理論もまるで知らない、そんな人間がそんなすぐに作曲家や編曲家になれるはずもありません。そこで歌ならプロレベルだから(……と恥ずかしながら思っていました-_-;)、歌で仕事をしながら地道にピアノや理論を勉強して、ゆくゆくは作曲家・編曲家に、と思っていました。

今から思うと色んなところに保険をかけて、いつでも逃げられる口実を作っていたのかもしれません。

別な時には「プロになる、ならないじゃないんだ」と人に話していたこともありました……。

確かに音楽をするというのは本質的にはプロとかアマとかの次元とは全く別のものだと思いますが、それを自分の人生に本気にならずに済ます口実にしていたなと今になっては思います。

 

このように逃げ道だらけ、言い訳だらけのスタートではありましたが、音楽学校での生活はまるで水を得た魚のように、ボクにとってとても楽しいものでした。

 

「楽しい!」

「ヤバイ!」

「なに、この充実感っ!!」

 

……と、とても充実していました。

他の音楽学校を覗いた訳ではありませんが、講師の方たちはボーカル、楽器共に今から思い返しても本当に素晴らしい方ばかりでした。現役ミュージシャンの講師の方のほとばしるライブを見に行っては、とても激しく刺激を受けました。

 

「なんだ!この世界は!(≧▽≦)!」

 

今まで知らなかった色んなジャンルの歌を教わり、ボイストレーニングなるものを受け、コードやスケール等の音楽理論を学び、ピアノはジャズやブルースをなんちゃってで弾き………と、今まで出来なかったことが出来るようになり、今これまで全く知らなかった世界がくっきりと鮮やかな色と形を持って目の前に拡がり出しました。

 

有頂天でした。

自分はスゴイと思っていました。

才能があると思っていました。

 

音楽学校の2年目に入った頃、関西の名門ジャズクラブのオーディションを受けて合格しました。音楽学校の歌の上手い友達がそのジャズクラブのオーディションを受けて落ちたと聞いたことがきっかけでした。

「ボクなら受かるはず!」

そして、ジャズなんて殆ど知らないし、特に何の思い入れもなしに腕試しのような気持ちで受けて優勝してしまったのでした(優勝と言っても10人くらいの中の1位なだけですが・・・^^;)。

当時、男性のジャズボーカルは珍しく、審査員の方が恐らく「育ててやろう」的な意図があったと思います。ですが、「やっぱりボクはスゴいんだ!」と自惚れるのに充分な結果となりました。

さて、これまで全くと言っていいほどジャズボーカルを聞いたことなかったボクは、1ヶ月ほどの間にジャズの曲を20曲ほど歌わないといけなくなりました。

CDを1週間に30枚ほど買い、どの曲が歌えそうか必死に聴き込みました。歌詞も覚えて意味も訳して自分なりに感情の裏付けをしました。

ドキドキで初ステージを迎えました。

熟練したミュージシャンの方たちに助けていただきながら、なんとか3ステージ歌い切ることができました。共演した凄腕ミュージシャンの方から「スゴイ良かったです!」と握手を求められました。

音楽的には自分でも中々良かったのではないかと思いました。少なくとも、初めてジャズのステージに立ったにしては良い出来だったはずだと思いました。

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しかし、………オーディションの合格者には、最低2回分のステージが約束されるのですが、約1ヶ月後にもう一度ステージをこなした後、ボクに3度目のステージの依頼は来ませんでした。

そう言えば、ジャズのステージの合間に客席から

「あいつは確かにめちゃ上手いけど、それだけやな。何がしたいのか全然分からへん」

と話すのが聞こえました。誰が話したのかは分かりませんでした。自分と同い年くらいの声に聞こえたので、音楽学校の友達か知り合いかなと思いました。

「きっとボクの歌が上手いからひがんでるんだ……。」などと思って、大して気にしていませんでした。

その後、2回のステージを録音・編集したデモテープ(当時は本当にカセットテープでした)を出会ったプロの方に配りまくって、それ経由で何度か単発でお仕事を頂いたりしました。

音楽学校で2年学んだ後、特待生となり授業料免除でもう一年学べることになりました。

この頃にはもう作編曲家という気持ちは微塵もなく、歌をしてゆきたいと思っていました。

音楽学校でも歌を専門に学ぶことになりました。

その内、アメリカの有名な音楽大学のバークリーに留学しようかと考えるようになります。資料を貰って夢を膨らませていましたが、留学に必要な英語力とお金という現実にぶつかり、あっさりと諦めました。

本当に行きたいのであれば、バイトを必死でして英語も本気で勉強すれば、いつかは必ず行けたはずですが、残念ながらボクはそういった努力のできる人間ではありませんでした……。

そもそも、それほどバークリーに行きたい訳でもなかったんだと思います。

すごいと言われるところに行ってそこでそれなりに認められたら、自分をスゴイと思える。」

「海外でも自分が通用する実力があるのか確かめたい。」

そんな気持ちでした。

自分で自分のことを認められないからこそ、すごいと言われてる場所で認められたら、自分を認められる、……そんなことを求めていたのだと思います。

「歌で何かを伝えたい」という強い思いがあったわけでなく、自分のことをすごいんだと思いたかったのです。

ジャズのオーディションを受けたのも、別にジャズが大好きだったわけでも、ジャズボーカルになりたかったわけでもなく、難しそうな関門をクリアしたかったからでした。

「あいつは確かにめちゃ上手いけど、それだけやな。何がしたいのか全然分からへん」

………ジャズのステージの際に客席から聞こえてきた言葉は、まさにその時のボクを言い表していました。

 

特待生としての一年はあっという間に過ぎ、音楽学校を卒業しました。

その後は、バイトばかりの暮らしになりました。

ライブもほとんどしませんでした。作曲も作詞もオーディションもボイトレもピアノの練習も何もせず、どうしたらいいんだろうと悶々としていました。

音楽をしてゆくんだという想いは自分の中で疑ってはいませんでしたが、何をどうして良いか分からず、何も動けずにいました。

バイト生活が1~2年ほど経った頃、その時務めていたバイト先の人員整理でバイト全員が一斉にクビになりました。

派遣社員のような仕事だったので、雇用保険に加入していて、給料の8割の3ヶ月分がすぐに支給されました。

「よし、これを良い機会だと思って、このお金をもらえた3ヶ月の間にこれから自分はどうするのか、真剣に考えよう!」

そう思いました。

 

………しかし、あっという間に月日は経ち、何も思い付かない状態で3ヶ月は過ぎました。

結局、何も出来ない、しようとしない、グズな自分は、お金をもらえた3ヶ月でも変わることはありませんでした。自分自身に心底嫌悪し「最低だ!」と罵りました。

 

そんな時、

 

「植村くん、引っ越しするから電話番号変わるって言ってたけど、連絡ないから前に聞いてた番号に(電話を)かけたんだけど、最近どうしてるの?」

 

と電話がかかってきました。

通っていた音楽学校の方からでした。

 

「バイト、クビになってどうしようかなぁって思ってたところです(¯―¯٥)」

 

「なんや、それ! ちょっと話があるんだけど、時間のある時に学校に来てくれない?

 

「分かりました。時間だけはたっぷりあるんで・・・」

 

………なんだろう。何かいい話かな…。それとも何か怒られるかな・・・。特待生にまでしたのに何も活動しないなんてどういうことだ的に・・・。

でも、わざわざ学校まで呼び出してまで怒られるようなことではないだろうし…

考えても分かるはずはありませんでしたが、この電話がボクがボイストレーナーとしてのキャリアを踏み出す第一歩となるのでした。

 

ボイストレーナーへの道 ⑥ へ続く

 

 

【参考音源「当時のボク(24~25才頃)」】

「確かJAZZ演ってた時の音源テープで残してたな」あれブログにアップしてみよっかな。と思い探してみたら、心当たりのデモテープ(記事中に出てくる「プロの方に配りまくった」というデモテープです)は見つかりませんでした。その代わり、他の音源もちらほら見つけてこの際それでも良いかなとPCに取り込んでみました。

正直、それなりには上手かったと思っていたのですが、取り込む際に自分の昔の歌を聴いてぶったまげました。

 

「こんなにひどかったのか!!」

 

・・・・・・ショックでした^^;

でもまあそれだけ自分が成長したということで良しとしたいなと思います。

発声のこともありますが、何より歌を歌うということがあまりにもテキトーすぎて今の自分が客席で聞いていたとしたらきっと怒って帰ったと思います。それでそんな音源載せるのか、どうしようかと迷いましたが、一度載せてみて、不評っぽかったら消そうかなと思っています・・・^^;

聞いた人は「別に下手じゃないやん」とか「きこえにくっ!(音源の状態が悪いです)」とか色々あると思いますが、今はもっといい歌うたっているので、これが今のボクとは思わないで下さいね。・・・なんか言い訳ばかりで見苦しいですね・・・^^;

 

さて、2曲載せました。

 

  1. Lover Come Back To Me

 ボクがJazzをやっていた時の最後の方かなと思います。結局Jazzの常套句や決まり事などもあまり分からないまま、勘で歌っていました。いつもびくびくしながら「大丈夫かな」「ちゃんとできるかな」とステージを迎えていました。かなり雑な歌だなと思いました。Jazzを歌うということに必死で自分がその音楽やライブ感を楽しんで歌うという気持ちは全くなかったと思います。難しい問題に挑んで出来るかどうかの博打をしているような感覚でした。それも楽しまずに。まだマシな音源を載せたのですが、他の音源などを聞いていて、良くこれで他のプロの方は一緒に演奏してくれていたなと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました・・・。

でも実はこの時共演したミュージシャンの方が音楽学校の講師の件を推して下さったそうで、このステージがなかったらボクはボイストレーナーとして(というか音楽に関係した仕事をする人としては)世に出ることはなかったかもしれません・・・。

 

   2.You Don’t Know Me (Kenny Loggins)

これもまだボイストレーナーになる前でまだバイトをしていた頃の演奏です。年に2~3回ほど演った中の数少ないライブ音源です。ピアノの弾き語りをしています。この音源を聞いて、まだ音楽学校の生徒だった時、ボーカルのテストで、「植村くんは声のMAX(最大)とMIN(最小)の差が激しすぎるね」と言われたのを思い出しました。まあこの録音の状態が悪いというのもありますが、小さい声は聞こえないほどで、大きい声は叫んだりしています。自分の中の気持ちには従って歌っているのだと思いますが、人にこの歌を届けるという意識はなかったんだと思います。

「自分の気持ちに嘘のない歌を歌う」というところに集中しているのですが、自己満足の域を出ていないと思います。歌を歌うことでその空間を変えるほどの歌を全く描けてはいないのだと思います。この音源はかなり退屈かもしれませんね。1’00″頃より歌が始まりますので、イントロの長いピアノが聞いてられない方は飛ばしてお聞き下さい。

 

 

Jazzを経由したことで、25才頃とは思えない老けた歌になっています・・・。Jazzをやっていた頃は「植村くんも30才を超えてきたらいい歌うたえるようになるよ」などと言われ、歌い方から服装まで大人チックな感じを目指していました。メル・トーメやナットキング・コール、トニー・ベネットなどの歌を聞いてその雰囲気を掴もうとしていました。

今も落ち着いた歌を歌う方だとは思いますが、この時よりはもっともっと若い歌を今の方が歌っているかなと思います。

Jazzを歌うのではなく、ボクの歌を歌えば良かったのです。