腹式呼吸について

「腹式呼吸」という言葉を聞いたことのない人はあまりいないと思います。

“お腹で支えを作り、喉を開けて、口を縦に大きく開け、口角を軽く上げて「あー」と強く声を出す”

このようなトレーニングが疑うことのない素晴らしいメソッド「腹式呼吸」として100年以上も発声の世界でもてはやされて来ました(当然ながら西洋的な腹式呼吸の概念は明治維新以降持ち込まれたものです)。

ですが、現在(現実的にはかなり前からですが)では「腹式呼吸」という方法論が発声練習においてなんら意味を持たないことが科学的に証明されています

10年ほど前までは腹式呼吸への「信仰」はまだまだ強く、私のレッスンスタイルは当時かなり異端でした。それもここ10年ほどの間に発声を科学的に捉えようという動きが(良くも悪くもですが)広がり出しました。弓場徹先生や高田三郎先生らの著書や、SLSのインストラクターの方達などによってその速度はより加速度を増したように思います。

今回、この「腹式呼吸」というテーマで書こうと思ったきっかけなのですが、最近新しくレッスンに来られた生徒さんから「前のところで『君は腹式が出来てない』と言われました….」と複数の方から話をお聞きしました。

「えっ、まだまだ、腹式呼吸って叫ぶ人は沢山いるんだ……。」

…少しショックでした。

私の周りにいるトレーナーさん達の間では腹式呼吸に重点を置く方は1人もいらっしゃらないので全然気がつきませんでしたが、世の中では腹式呼吸がまだまだ主流なのかもしれません。この「こえぶろぐ」の中で、腹式呼吸の話を沢山するなんて考えてもみなかったのですが、発声時における「呼吸」の考え方を私なりにですが書かせてもらおうと思います。

playing-card-112868_640お腹で声を(もしくは息を)支えることも、お腹を膨らませたまま声を出すことも(逆にお腹を凹ませて声を出すことも)、お腹ではなく背中の方に息を回すことも、イメージとして何か声の変化のきっかけになることは確かにあります。息は声を出す上でとても重要な役割を担っています。息のイメージを変えることで声が変わることはある意味当たり前のことです。

ですが、具体的なトレーニングとして息のコントロールをメインにする(つまりここでは腹式呼吸の練習をするということ)とは一体どのようなことなのでしょうか?

声以外の楽器においては楽器がすでに存在していて、練習するのはピアノなら指、ギターなら指やピッキング、ドラムならスティックさばきやペダリングとなります。それらの練習は全てどうやって振動(音)を起こすかという点に集中しています(YouTube動画の感動する声~基本編~その①をご参照下さい)

声においては「息」がその「振動(音)を起こす部分」に当たります。なのでこの考え方でいけば練習するのは「息」で、腹式呼吸も一見正しい練習方法のように思えます。

では今度は「振動する(音を発生させる)部分」に注目してゆきます。ピアノは弦、ギターも弦、ドラムは膜となりますし、声は声帯ということになります。私たちはこの弦・膜・声帯などを振動させるために、指やスティックや息を使っているのです。つまり言いかえれば、弦・膜・声帯などが良い振動(もしくは思い通りの振動)を起こせるような指・スティック・ペダル、そして「息」の使い方を習得することが必要になるということです

さて、もう一度「振動(音)を起こす部分」に意識を向けましょう。ピアニストは確かに指の練習を沢山繰り返します。ですがそれはスポーツ選手が力を付けるために繰り返す指の練習とはまるで異質なものです。握力や指の力が強いアスリートが必ずしも美しいピアノの音色を出せる訳ではありません。ピアノにおいては力の強さではなく如何に思い通りに動かせるかの方が大切なのです。ピアノに比べてとても力が要りそうなドラムですら同じことです。プロのドラマーのような良い音を出そうとして渾身の力でヘッド(膜)にスティックを叩きつけたとしたなら、良い音が出ないばかりか下手をすれば楽器を壊しかねません。楽器を演奏する人は、自分の感じている微妙なニュアンスを正確に振動部(弦・膜など)に伝える感覚を養うために来る日も来る日も練習しているのです。

もちろん「声」という特殊な音声を出す楽器(つまり私たちの喉)も同じことが言えるはずです。私たちが声を出す時に振動させている『声帯』は1~2cmほどのとても小さな部位で、その声帯をコントロールする種々の筋肉群も上腕二頭筋などと比べとても小さく非力です。そんな繊細な声帯たちを自在にコントロールするためには、強い力ではなく、コントロールされた繊細な力(息)が必要なのです。もし1~2cmほどの声帯に力一杯の息をぶつけて発声するなら良くてコントロールを失うだけで済みますが、最悪の場合一度で声帯を痛めてしまうことも十分にあるでしょう。

「いやいや、本当の腹式呼吸というのは、息を強く吐くのではなくて、むしろ息を吐きすぎないようにお腹でしっかりと支える(お腹を膨らませたまま息を吐かないようにする)のだよ」

・・・とおっしゃる方がいるかもしれません。実は私も20年くらい前は、なんの違和感もなくそんな風に思っていました(苦笑)。ボイストレーナーになった始めの頃ですら、腹式呼吸の見本を見せるとか言って、お腹を息で膨らませてベルトをブチッと切ったりしては「腹式が出来るとベルトが壊れて困っちゃうんだよ^^」などと得意げになっていたこともありました・・・(再び苦笑)。

冷静に考えてみましょう。たとえば”100″の息を出そうとしてお腹で支えることで”80″の息を減らして”20″の息を出すようにコントロールできるのだとしたら、初めから”20″の空気を出すようにコントロールすべきではないのでしょうか?

「いやいや、お腹で支えた方がコントロールしやすいのだ」

・・・というご意見も出てくるかと思います。そういった感覚があること自体を否定するつもりはありません。ですが、ここにはとても重大な真実が秘められています。なぜ初めから”20″の空気を出すようにコントロール出来ないのかというと、“20”の空気を使って目的の高さやボリュームの声を出すことが全くイメージ出来ないからなのです。理屈では分かっていても(分かっていない人の方が多いですが)、実際に高い声や強い声を出そうとすると「強い息じゃないと出ない!!」「声が裏返ってしまう!」「喉が詰まる!」と半ば恐怖心のようなもの(トラウマに近いです)が無意識に出てきてしまって、息をどうしても強く吹き付けようとします。「息を吐かないようにするための『腹式呼吸』」とは、そういった無意識に起こってしまう強い息に打ち勝つために、お腹や横隔膜、胸郭など呼吸に関係する部位を逆方向(つまり吸う方向)にとても強い力で動かすことにより吐きたい衝動をねじ伏せようとしているのです。

逆に「絶対に強い息は吐かないぞ!」と自分に言い聞かせて決して強い息を使わずに声を出せば、ほとんどの場合は、裏声にひっくり返えるか、コントロールの効かない不安定な声になり、目的とした高さや強さの声は実現できません。

では、一体どうすればいいのでしょうか?

息を送り込む先、つまり喉の状態を先に決めてやることがとても重要です。自分が出そうと思っている声に適した喉の状態をイメージできずに、どのような息を吐くのが正解か分かるはずがありません。もっと言うなら声帯の振動こそが声の大本であり、全ての集中力は声帯をどのように振動させるかという点に注がれるべきです。その上ではじめて、呼吸や喉仏の位置など必要な条件が導き出されることになるのです。

声帯がどれくらい緊張していて、どれだけ伸びていて、声門(声帯同士の隙間)がどれくらいの閉鎖具合なのか。これらが言葉(知識)ではなく発声時の身体の感覚としてきちんと認識される必要があります。

ピアニストなら、自分が弾こうとしているピアノが、グランドピアノなのか、シンセサイザーなのか、子供用のおもちゃピアノなのか、全く分からずに自分の思う音を出すのに適した指の力をイメージことが絶対に出来ないのと同じことです。音を出す対象(つまり振動する部分「弦」「声帯」)が分かっているからそれに必要な負荷(つまり振動を起こす部分「指」「息」)が適切にかけられるのです。

そもそも呼吸云々よりも先に、声帯やその周辺の筋肉達を目的に合わせて自在に動かせるようになるためのトレーニングが最も優先されるべきことなのです。これらが整うことによって息は目的の声に適切な呼気(もしくは吸気)を自動調節して送れるようになるのです。声帯や喉周辺の状態が曖昧なままでなにがしかの意図を持って息を吐いたところで、声はひたすら同じ過ちを繰り返し続けます。呼吸に偏重したトレーニングや考え方のせいで私たちは本来持っている喉の機能をとても偏った状態にしたり、痛めてしまったり、軟弱にさせてしまったりと多くの弊害が起こっているのです。

腹式呼吸などの呼吸偏重のトレーニングが今もまだもてはやされ続けているのは、「声を出すには力が要る」「何かをしないといい声は出ない」といった考え方が底辺にあるように感じています。

このような「自分のままではダメだ」という考え方こそが表現を損ね、楽器としての機能をも崩してしまっています。

表現とはそもそも大きな声を出すことでも高い声を出すことでもなく、自分の感じている感情や感覚を声にのせるというものの筈です。それが「素晴らしい声やなかなか普通では出せない声を出すことでしか評価されない」という思いから自己を否定し、何者かになろうとすることによって、意味のない力任せの呼吸を生んでしまっていると、私は考えています。

大きな声を出すには小さな声より当然大きな力を使いますし、息も増えます。必要な息や力を十分に入れられることはとても大事なことです。

また呼吸はとても大切です。表現とは息遣いだと私は思っています。しかし、多くの場合、その息遣いを「腹式呼吸」は殺してしまいます。誰の声でもない意味のない大声を生み出してしまいます。

「息」が自由で、「声」が自由で、「表現」が自由。そんな状態をボイスラボでは常に目指しています。

 

 

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