ボクの中学、高校時代はカラオケ文化がまだ浸透していませんでした。
カラオケそのものはありましたが、当時はスナックやバーなどお酒の席での娯楽であり、中高生の”ボクがカラオケを歌えるような場所(今のカラオケボックス)は少なくとも自分の住んでる町にはありませんでした。
中学3年生の音楽との出会い以来、音楽がとても好きになったボクは、Journey、Chicago、TOTOなどを(兄の)テープに合わせて来る日も来る日も歌っていました。
どのバンドも高音のボーカルが特徴の一つですが、Aメロの低いところもサビの盛り上がるところもすべて裏声をメインにして歌っていました。
(この記事で出てくる「地声」「裏声」は、発声における生理的な機能のそれではなく、一般的に使われる意味合いでのそれになります)
でもその頃のボクは『裏声で歌っている』という意識は全くなく、高い声を地声で出すという考えもまるでありませんでした。
先ほど書いたようにカラオケもなかった当時、バンドなども特にしていなかったボクは、人前で歌を披露する必要(機会)がありませんでしたし(殆どの人にとって人前で歌うのは音楽の授業の時位しかありませんでした)、無理に地声で歌うなんて一度も考えたことすらなかったのです。
ただただ、「曲や歌と一体になりたい!」と無意識に感じていました。聞こえてくるギターのリフやドラムのフィル、そして、歌い手の息づかいや表情(←もちろん顔ではなく声の)を夢中でコピーしていました。
コピーと言っても、ドラムのフィルはボイスパーカッションのようなリアルなものではありません。ボーカルもオリジナルの高く充実した声(地声っぽい声)ではなく裏声で真似ていたのです。
音色が似ていることはボクにとって大切なことではありませんでした。
ボクにとって一番重要なことは、その音楽の衝動を感じ取り一体となることでした。
なぜこのタイミングでこの声を出すのか、ドラムのフィルがなぜここでこのパターンなのか、ギターソロのフレーズの選び方やシンセの音色など、その音楽に散りばめられている音の存在意義(衝動)を感じ、それと一体となることで、ミュージシャンの気持ちと同化し、ギターやドラムや歌を共に奏でていました。
音色的に似た声を出したいと思ったことは一度もありません。ただ同じパッションを感じていたいと思っていました。そして、それに辿り着くこと(あくまでも主観的にですが)で感動し、涙し、日常では味わえない感覚を感じていました。
女性ボーカルの歌を歌うとき、ボクは女性のような声色で歌うべきでしょうか?
………もちろんそんなわけ無いですね。気色悪すぎます(*_*;
真似るのは音楽性であって、音声波形や倍音成分ではないのです。(もちろんボイストレーニングにおいては、音色を真似ることは意味を持つと思いますが、ここでは昔の私「ボク」が自分の中で『音楽に対する感性』を息吹かせる体験として書いています)
(話は少し飛びますが、最近は「男性なのに女性の声で歌える(いわゆる両声類)、といった事がスゴイと持てはやされることがあります。何か特別なことが出来ることがスゴイとされているのだと思います。異性の声、超高い声、超早い歌詞、超跳躍する音程を正確に歌うなどです。確かにそれらが歌唱出来ることはスゴイことですが、表現の内容自体はむしろ引っ込んで伝わってこないように思います。あまりにも辛すぎるカレーは味がむしろ分かりにくいのと同じようなものです。刺激はその性質上どんどん過激さを増し、いずれ飽きられてしまうことでしょう。人の心を驚きで動かすのではなく、発する者と受け手との間で誠実な心の交流が築いてゆけるような表現や文化がもっと広まっていってほしいと私は願っています。)
それは異性にかぎらず、同性の男性ボーカルに対しても全く同じことだと思います。
ピアノ(ボク)を弾いているのにギター(女性ボーカル)の音にできるだけ近づけようと努力するのはとても馬鹿らしいことですが、同じようにピアノ(ボク)でオルガン(男性ボーカル)の音を真似るのも馬鹿げたことです。
ピアノはピアノの音で表現すべきであって(というかそうすることしか出来ない)、他の楽器の音を似せようと努力したところでピアノの魅力は見えてきません。
その楽曲やミュージシャンから発せられるパッションというか魂のようなものを感じて、それを自分の中で再現することが、ボクがとても大切にした「歌の世界」だったのです。
そんなわけで、自分の中では世界的なアーティストと一体になっていた(つもりの)ボクは、裏声で歌っているにもかかわらず、彼らと同等の歌が歌えると感じていました。
『日本に敵はいない』
当時、ボクは恥ずかしながらそう思っていました(´-﹏-`;)
久保田利伸さんが世に出た時に、「ようやく自分と同じくらいのレベルの人(ギリギリ自分の方が上)が出てきた」とライブもカラオケもしたことのない高校生のボクは思いました。久保田利伸さんは密かにボクのライバルでした^^;
普通に考えて随分と「イタイ」人(今風には中二病という感じでしょうか)だったかなと思いますが、当時は真剣に思っていましたし、今でも多少似たように感じているところがまだあります。
誰より上とか下とかはさておき(._.)、自分にとってこの裏声で歌ってる時期が、今の自分に大きく活きていると思っています。特に、練習のためにストイックにするのではなく、純粋に楽しんでやっていたことは大きいと感じています。
音楽に限らず色んな分野で「見た目は派手だけど中味はあまり感じない」ということがあると思います。自分の深いところでじっくり感じ取るということが少なくなってきているのかなと思います。
ボイスラボでは表現のレッスンの中で、単なる声真似ではなくアーティストの気持ちを真似て一体になることや、裏声で全て歌ってみることをお勧めしています。
ボイストレーナーへの道のり ③ に続く